ひるねの時間

「諸刃の刃」 97/9/3      卜部 知典

警察は何をしているのか?
最近、そう思わされる事件が多い。

日本は、欧米に比べ安全だけは超一流の先進国だった。
しかし、最近それも崩れつつある。目を覆いたくなるような凶悪事件が後を絶たない。しかもその犯人は大人だけとは限らず犯人の低年齢化も目立つようになって来た。
もともと、日本の安全とは古来からの儒教精神などに基づく日本人独特の道徳心によって支えられているところが大きかった。あとは、封建時代の五人組制度や戦時中の隣組制度の様に住民同士のいわば相互監視制度などによって犯罪を犯しにくい環境を整えていた事なども一役かっていた。

しかし、それらはまた、国民の自由を奪うものでもあった。儒教にしても本来の精神に反して拡大解釈すればそれは身分差別を助長するものとして運用できるし、五人組や隣組などは、互いの自由を奪うばかりでなくご近所での人間同士としての関係にも障害を生み人間らしさを失わせていた。これら犯罪を抑制する思想や制度は一方では基本的人権を束縛する可能性も有るいわば、諸刃の刃であった。
そういった事も有り、また彼らの文化にもそぐわなかったのだろう、戦後やって来た進駐軍によってこれらはおおむね否定されてしまった。自由の名の下に。

しかしその後、日本人の持っていた節度や労り、尊敬などというものは無くなってしまった。そして、第二時世界大戦の反省から、理想や目標というものを含めた思想というものが敬遠されだんだんと若い人達から夢が消えて行った。

確かに大日本帝国時代、儒教を始めとする思想は悪用されその精神として有った弱い人への労りや経験豊富な人生の先輩への尊敬といったものを、本来は自発的に有ってこそ意味を成すものを、強要し拡大解釈する事によって悪用していた。
また隣組も、ご近所同士で互いに互いの子供の成長を見守り時には他人の子供を我が子同様叱ったりもした。お互い助け合いの精神も産み出した。今のように都会に住んでいても一人孤独で暮しているような人を産み出す事はなかったに違いない。しかしこういった本来どんな形にせよ存在するはずの近所付き合いも、相互監視の道具として利用されていた。
その反動でこれらを敬遠するのはよく解る。しかし、本当に悪いのは儒教や隣組ではない。それを運用する人間が悪いのだ。 これらが無くなった結果、年寄りを敬わなくなったり、隣に住む人がどんな顔なのかも知らなかったりする世の中になってしまい、お互い同士の無関心が結局は犯罪を犯すまでだれもその人の心の隙間に気付かないようになってしまった。

そう思うと、昔は束縛も有ったが人間同士の心のつながりも有った。子供達は近所の人達に見守られ、多くの人の愛情を受けて育った。おそらくほとんどの子供達が屈折した犯罪とは無縁であったに違いない。そうすれば今のような凶悪事件も減り警察ももっと楽だったであろうと思う。

自由を否定する訳ではない、自由は素晴らしい。しかし、自由もまた諸刃の刃だ。

先日の神戸の少年による連続殺人事件の様な事が起こると本当に考えさせられる。

目次へ戻る!