ひるねの時間

「言外」98/05/17      卜部 知典

数学とはどうも西洋人向けに作られた学問のような気がする。
少なくとも1・2・3・4・・・と、ただ数を数えただけのころから現在に至るにおいて、その研究がすすむ際の根底にある哲学のようなものは、西洋人的なそれである気がする。
たとえば必要十分条件という言葉がある。日本人的な一般の会話において必要とか十分とかという単語は前後の文脈によって意味合いが変わってしまう。また見る人の立場や条件の違いによっても意味合いが変わってしまうこともある。必要にすることと必要にされることは意味が逆だ、しかし数学の世界においてはpはqの必要条件であるときqはpの十分条件であるという。これは、世界中の誰が見てもそうであり見る人の立場によって変わってしまうことなどありえない、まして逆になんてなり得ない。必要条件とはあくまで必要条件であり、十分条件はあくまで十分条件なのだ。
解なしという言葉も違和感がある。普通解という言葉は解答などという感じで答えというイメージがある。しかし、数学の世界では解はあくまで解なのだ。答えとはぜんぜん意味の違う言葉である。
よって、解なしという答えが生まれたり何かの解から更に操作しないと答えにならなかったりするのだ。
そうやって、すべての数学用語は、世界共通にその意味を定義されている。
だからだろうか、数学の発展によってその基礎が成され誕生したコンピューターも馴染みにくい。
契約書社会になれている西洋人には、言葉の定義と言う概念は馴染みやすいのかもしれないが、日本人にとってはやはり難解だ。ほんの一文字違うだけで理解してくれない。前後の動作から意味が解りそうなものだがだめである。

このあたりは言外に意味を持たせて会話をする日本人には、どうしても馴染みにくい。
多くを語らずともお互いに理解し会いまた理解していると信じる。そこには慣習や常識という不文律が有って、みな一様にそれを守っているからである。
その為、逆に日本の文化は西洋の人には馴染みにくい様だ。日本人がいくら規制を減らし、オープンにしているつもりでも、言外に込められた意味は外国の人には解りにくい。そこには日本人の常識やら風習やらが有って、それはなかなか表に出ず外から来た人には理解しにくいからだ。
たとえばちょとした事をお願いするのにも、はっきりとは頼まない事が多い。含みを持たせたような言い方をする事が多い。たとえば誰かにいつも用事を手伝ってもらっているとする。今日の用事が終わり別れ際に、「明日は何処か買い物でも行くのかな?」などと聞く。もちろん言外に何の用事もなければ明日も手伝ってほしいという意味が込められているのだ。「いいえ。」と答えると、「ああ、そう。」で会話が終わる。しかしこのとき、次の日の事を頼まれなかったからと言って手伝いに行かなければ、後でなんと言われるか知れない。すでに、言外において頼んでいるつもりでいるのだから。しかし、はっきり頼まれない以上、先に断っておくのも変だ。もしそんな事をしたら、相手を疑ったという事で失礼に当たる場合も有るだろう。

こういった言葉にしないで意志を通じあわせる方法は、西洋の人もまったく行わない訳ではない。ではどういう時にするか、それは、悪い事をする時など後ろめたい時だ。
こういった暗黙の了解と言うものは、洋の東西を問わず後ろめたい時に、意思を伝えるには丁度いい。 日本にはそうした後ろめたい事をするのに都合のいい文化が育ってしまった気がする。
その為だろうか、日本には欧米に比べて談合や損失補填、不正取り引き、贈収賄などの両者合意の上で行われる犯罪が多く、またこれらを罰する動きが弱い気がする。これも日本の文化なのだろうか?
日本は一時期、世界一の経済大国になった事が有った。今でも世界経済の中心にいる事は間違いない。 という事は、世界の経済を引っ張っていく責任が有るという事だ。いつまでもアメリカの保護の下、自分達だけのローカルルールによって、経済を動かす事は出来ないはずだ。 西洋文化から発展したコンピューターを取り入れて活用しているように、そろそろ、本当に市場を自由にし、文化が違うとはいえ、世界のルールーも取り入れていくべきだ。
金融ビックバンの中、今そうできるかどうか、それが日本が生き残っていくためには重要な部分だと思う。

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