ひるねの時間

「事の本質」98/11/24      卜部 知典

一昨年、社内のコンピューターシステムを一新した。
受注から製造・販売・財務管理・給料計算に至るまで、当時必要と考えられていた全ての機能を盛り込んだ。そこには、今まで業務単位ごとに分けられていたシステムを、互いにデータに関連付けをする事によりデーターの共有化をする意図も含まれていた。

しかし、こういった全部を盛り込んだシステムを作るのは、初めてだった事も有り、不備な点が多く、作業も複雑になり、従来のシステムに比べて多少使いにくいものになってしまった。
そういった事も有ったのだろう。当時の製造部門担当の係長、実質的に現場の監督者が、煩雑になった業務を改善しようと、まだ全体のプログラムが、導入されて2〜3ヶ月ぐらいの時に表計算ソフトを使って、生産計画や、原料の在庫管理等の部分を楽にするソフトを制作した。ソフトといっても表計算ソフトを使ったマクロ等も使わない程度の物なので、数枚のシートが、互いに大量にリンクし合っているという物だった。しかし、もともとコンピューターには馴れていなかったせいも有り1ヶ月以上かけて苦労の末完成させた。

しかし、これを実際使おうとした時、上司からSTOPがかかってしまった。
「せっかく全社でお金をかけて新しいシステムを作ったのに、それを無駄にするつもりなのか?」と、言う事らしかった。
全社的に不評の高かった新しいシステムに逆らっていると見られたのだろうか?
しかし、わたしは20世紀も終わろうとしている現代に、いまだにこんな考え方をする人がいる事に驚かされた。

コンピューターの世界は日進月歩である。それだけではない、技術、文化、ビジネス、あらゆる面においても、今の世の中すべてが日進月歩である。
今日の最先端は、明日の土台でしかない。今ある完成品はすべて時代遅れと考えても間違いではない。
もちろん、明日になれば今ある物が全て無くなってしまうと言う事ではない。
過去の物が否定されるのではなく、技術革新が進み、ニーズもより高度になって行くと言う事だ。
今日最先端のMDなどをはじめとしたデジタルオーディオ技術にも、エジソンの蓄音機の技術が生かされている。エンコードやデコードの方法が、より確実で合理的になっただけである。
だから、先ほどの表計算ソフトを使った話も、社内のコンピューターシステムの変更や、生産業務そのものの量の増加など技術革新やニーズの変化に対応して、補完的に作られた物にほかならないのだ。 なぜなら、元に使うデータの生成だって、演算の結果の利用だって結局は全社のコンピューターシステムに委ねているのだから。
だからこういった物は、無意味に作られた物ではなく、次回の全社のコンピューターシステムの導入の際には、反映されなければならないものなのだ。

導入予定の1年以上も前から計画を練り、途中てこずった事も有り導入までには18ヶ月ほどかかってしまった。これくらいのニーズの変化は生れてしかるべきである。
もともと、コンピューターシステムの導入を行ったのは、業務の複雑化と量の増大に対応するため、つまり、仕事を楽にするためだ。会社としてはそれによってコストダウンが図れる。
しかし、お金をかけて導入したのだから、使いにくくてもその器に合わせろというのでは、本末転倒だ。新しいニーズによって発生した不備な点を、補って使って行くというのが、正しい使い方である気がする。

事の本質を見つめれば、製造部門の担当の係長が、上司に叱られたのはおかしな話である。
本当は、その叱った上司も、使いにくいと思いながらも、さらに上の目も有り我慢して黙って使っていたのではあるまいか?
そう勘ぐりたくもなる。
もしも、やりにくいと感じたり、おかしいと思う事が有れば、なぜ今そうなっているのか考えるべきだ。そうすれば事の本質にぶつかり、上司であろうと説得できるはずだ。
日本人はどうもまだまだ封建主義過ぎる。
皆さんはどう思いますか?

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