「芸術教育」99/01/25
片岡鶴太郎氏の絵をご覧になった事は有るだろうか?
一見すると誰にでもかけてしまいそうな絵。筆で簡単に線を引き、適当に彩色しただけのようにも見えるが、いざ真似をしようと思っても、凡人では、ああいう風にはなかなか書けるものではない。
構図の素晴らしさ。描かれている物の存在感。粗雑なようでいて計算され尽くした緻密な線。
私が同じように描こうと思っても、隅によって萎縮してしまったよな絵になったり、本当に粗雑なだけの線になったり、反対に描こうとするあまり奇麗では有るけれども、何の存在感も無い絵になってしまったりして、うまくは行かない。
氏の絵は、幾本かの墨の線と、簡単に塗られた絵の具、添えられた墨文字。たったこれだけの物で、多くの人の目を引き付け心を捉える。これは、単に絵を描くという技術だけでは不可能な事なのだろう。
昔、小学校や中学校へ通っていた頃、授業科目の一つに美術というのが有った。私はこの科目が嫌いだった。「先生はいったい何を基準に評価しているのだろうか?」いつも不思議だった。デッサンにしても、彫刻にしても、まさか芸術性を評価するわけには行かない。芸術性なんて、見る側の感覚によって変わってしまうからだ。評価する人が、少なくとも何十人もいるのなら話しも別だが、先生1人だけなら、たまたまその先生の趣味に会わなければ、いくら多くの人に好まれるような作品で有っても評価は低くなってしまう。それでは国語や算数といった他の科目と比べて平等性を欠く。
平等に評価しようと思えば、やはり芸術性は無視して、デッサンなどにおける写実性といった技術面からの評価しか出来ないだろう。
しかし、それでも美術と名のつく以上。作品と呼べる物を作りたくなるらしく、ポスターやクリスマスカードといったデザインを必要とする物を作ったりする。また本来写実性のみを評価すべき写生においても、子供らしいユニークな視点であるとか、のびのびとして力強い作品だなど、芸術性を評価したがる。しかし、本来平等な評価を要する学校教育において、それは間違った考え方だ。
例えば、何かのポスターを作るとしよう。50分の授業時間では到底完成は無理なので2週間の期限で宿題にしたとする。ある人は1週間毎日近所の公園に通い、その風景をそれは木の葉の1枚1枚まで描かれているのではないかというほど丁寧に描き、1週間目に提出したとしよう。もう一人の子は、赤い筆文字で大きく“心”と書いただけの物を、期限ぎりぎりに出したとしよう。先生はそれを見てどう言うだろう。心と書いた子供の作品を見て「やる気が有るのか?」と、叱るかもしれない。あるいは、そのまま突き返すかもしれない。期限ぎりぎりになったので苦し紛れにいいかげんに書いたのだろうと思うかもしれない。少なくとも公園の絵よりははるかに低い評価になるだろう。
しかし、公園の絵は丁寧では有るものの優等生の絵で、ありふれていて芸術性も低く心も引きつけないとする。一方、“心”の方は力強く、躍動感にあふれ、存在感が有り、何か心に訴えて来る作品だったとする。それでも、やはり大抵の先生は公園の絵の方を高い評価にするだろう。これは、芸術性や才能に対する評価ではなく、仕事量に対する評価だ。教育現場において点数をつける以上、芸術性というあいまいな物で評価するのは難しい。やはり、数値化しやすい物で評価してしまうのだ。
しかし、“心”と書いた子は、デザインの素晴らしさや芸術性を評価した結果、低い点数にしかならなかったのだと思うだろう。これでは、いくらその子に才能が有っても、この中途半端な芸術教育がその子の芽を摘んでしまいはしないだろうか?
“美術”という科目を学校で行うのであれば、点数化するのは、写実性などの基礎技術や色の性質、美術史といった基礎知識などにとどめておくべきで、絵画鑑賞や、デザインなどは参加したか否かの評価程度に押さえておくべきである。
多くの人がすばらしいと認める片岡鶴太郎氏のようなすばらしい才能を持った小学生が、氏と同じ様なすばらしい作品を描いたとして、同じ物、例えば魚なら鱗の一枚一枚までも描いてはいるがセンスの無い絵の子に,評価の上で勝てるだろうか?
画一化するならする。才能を評価するならする。どちらかに決めてしまわないと、このまま中途半端なままでは、多くの才能を殺してしまうような気がする。