ひるねの時間

「脳死移植報道を見て」99/03/22      卜部 知典

先日の脳死移植に関する報道には、かなりの違和感がある。
患者を特定し、年齢や性別や病名を公表し、一部の報道機関は、ドナーの家にまで押しかけたそうだ。
あまりの加熱報道。
国内における、法に基づく初の脳死移植であることは紛れも無い事実で、それだけに多くの国民の関心事であることは間違い無い。
しかしながらあまりのお祭り騒ぎには、異常ささえ感じる。
やれ肝臓はどこへ行くの、やれ心臓はどこへ行くのと、一人の命が尽きたことによって得られた尊いそれらを、まるでただの物のように扱う報道の無神経さには憤りを感じる。
どこよりも早く報道したい。誰も伝えていないことを他に先駆けて報道したい。それが報道魂なんだといわれても、名誉欲に駆られているだけとしか思えない。
日本の報道には心は無いのか?

遺族の方のコメントの中に、度々「プライバシーの侵害」と言う言葉が出てきたが、それに加えて、「遺族感情の無視」といったことも、今回の報道における問題点ではなかったかと思う。
もっと、一人の尊い命が失われたということを、まじめに考えてほしい。遺族の方々は、大切な家族の死に心を痛めたことだろう。その上、臓器提供という辛い選択をもなし、とても、複雑な心境であっただろうと想像される。それを、無神経にも病院や自宅にまで押しかけ、心境を聞き出そうとする。鬼でもない限り、家族の死を喜んでいる人がいるはずが無い。花束の一つも供え、焼香の一つもし、線香の1本も手向ければ、おのずと、遺族の心境もわかろうというものである。
今、あまりの加熱報道振りに、それまでは自分が死んだときには、ドナーになろうと決めていた人も、その考えを変えようとしてる人も少なくないときく。
なぜもっと、見知らぬ他人の命を守るためにドナーになろうと決めた人の勇気を、またその尊い思いを理解し協力しようという家族の勇気を、なぜもっと、見つめようとしないのか。私にはわからない。

確かに、日本の医療史において、重要な出来事であり、多くの人々が脳死移植という事実そのものに関心を寄せていたことは事実であり、報道もそれに答える必要があることは確かだ。
しかし、それはプライバシーの侵害や遺族感情の無視をしてまでも行われるべきものではない。
現代の日本の移植事情やそれを取り巻く環境について、また、意思表示カードの存在や意義などについて、みんなに考えてもらえる絶好のチャンスだったはずであるが、重要な事を忘れ軽はずみな報道を繰り返した結果、逆にドナーになることで、家族に迷惑をかけるのではないかという不安感を生み出す結果となってしまった。

報道の自由という言葉がある。
言うまでも無いが、日本は国民の自由と権利の保障された民主主義国家だ。
しかし、自由や権利は無条件に与えられるものではない、秩序や義務を守ることの出来る者のみに保障されているのだ。法を冒し、人を殺め、人の財産を理由も無く奪い取るような人には、法の裁きにより一部の自由が制限されてしまうし、納税や労働の義務を果たさないものには、同様に権利も制限されてしまう。
報道の自由も同じ事だと思う。ただ、報道はそれを扱う者のみならず、広く多くの国民の自由や権利とも深く係わっている為、簡単には規制できない。だからといって、過剰で無神経な報道を繰り返し、それが、国民の自由と権利をも侵害することとなれば、規制もせざるを得ない。
そうなれば第2次世界大戦のとき同様、国民の生命と財産にも係わる大事となってしまう。 そうならないためにも、報道は常に自らを律しつづけなければならない。
自由であるがゆえに、常に自分でコントロールしなければならないのだ。
忘れてはならない。報道は国民の自由と権利を守る聖職であることを。

目次へ戻る!