ひるねの時間

「過ち」00/02/06      卜部 知典

日本語。
太古の昔より連綿と続いてきたこの言語は、日本の歴史とともに育まれてきた。
言葉はその国の、魂なのかもしれない。

言葉によって生まれたものは数多い。
私の書く文章も、言葉あっての賜物だ。
そして、そこから生まれたあらゆるものによって、言葉自体も変化して行く。
言葉とは、文化の源であり、文化の鏡でも有る。

国によっては公用語が複数有るところもある。
例えば、複数の国から大量の移民を受けたカナダや、元々複数の民族が住む地域に国を作ったスイスなどだ。
これらの国々は、元々異なった言葉を話す民族が住んでいた為に、必要性があって複数の言語を公用語として用いている国々だ。

しかし、それ以外にも複数の公用語を持つ国が有る。
長い間他国の支配を受け、植民地であった為に、自国語が話せない人が増えたなどの理由で、本来の民族の言葉と、英語やフランス語などを公用語としている国などだ。
今となっては便利な一面も有るのだろう。しかしそれは、その国の悲しい歴史の名残でもある。

かつて、日本が韓国を占領し、強制的に併合した際、宗教の強制、苗字の強制、自国の歴史教育の禁止、などとともに、言語の強制も行なった。韓国の文化を根本から踏みにじったのだ。
多くの韓国の人々が、国の言葉を守る為に命を失ったことだろう。
国語とは、それほどまでにその民族にとって大切なものなのだ。

しかし、今。「安易な理由から他国の言語を、自国語にしようとする恥ずべき国が有る。」と聞いたらだれしもが驚くことだろう。
その国には、歴史の有る美しい言語があるにもかかわらずである。
その国は日本だ。

政府が、先日21世紀の日本の有るべき姿として、打ち出したものの中に、英語を第二公用語にしようと言う案が盛り込まれていた。
“第二”で有るとは言え、公用語は公用語だ。つまり、国語としとて取り入れられると言うことだ。
公の文章でも、英語だけでもかまわなくなると言うことにもなりかねない。
自国の文化や歴史を無視してまで、そんな自虐的なことを何故しなくてはならないのだろうか?

たぶんそんな極端な政策が、実現するとは考えられない。
しかし、政府の発表した事なのだから、あるメンバーの“うかれ者の戯言”とわかっていても、それでは済まされない。

確かに、日本を取り巻く国際情勢の中では、英語は重要な言語だ。
だから、今まで通り最も重要な外国語として扱えばいい。
何も公用語にしてしまうことは無い筈だ。

いくら呑気な政府でも、そんな過ちを犯すことはないだろう。と祈る。

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