西安・敦煌・トルファン シルクロード紀行

 シルクロードに憧れての旅には、これまでに平成10年8月の「西安・ウルムチ・トルファン・北京5日間の旅」と、平成12年8月の「西安・敦煌4日間の旅」があります。どちらも、職場を通じて知己を得た皆さんとの和気藹々の楽しい旅でした。
 ここでは、その二つの旅の内、西安・敦煌・トルファンに絞り、“シルクロード紀行”として悠久のシルクロードの一端を紹介したいと思います。
旅行日; ’98.8.6〜8.10及び ’00.8.18〜8.21


シルクロードの起点 西 安

かって長安と呼ばれていた古都西安。紀元前から2,000年にわたって、秦、漢、隋、唐など
多くの王朝がここに都をおきました。市内には、鐘楼や博物館(碑林)、大雁塔や小雁塔、
近郊に足を伸ばせば、秦の始皇帝陵や兵馬俑坑はじめ歴代皇帝の陵墓、
玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの地、華清池などを見ることができます。

また、西安は、シルクロードの起点でもありました。
中国の長安とイタリアのローマを結ぶ交易の道、シルクロード
中国の絹、そして茶や磁器などが中央アジアを経てヨーロッパに伝わり、
ヨーロッパからは香辛料をはじめとする物産や文化が中国に伝わりました。
現在の西安は、国内外の多くの観光客が訪れる観光都市であり、中国西北部の中心地です。

【西 安 城 壁】
 西安は、中国でも数少ない城壁の残る街だといいます。現在の城壁は、唐代の長安城の城壁の基礎を元にして明代に建てられたもの。唐の時代のものに比べて約9分の1の規模とのこと。それでも周囲の長さ14q、高さは12m、上部の幅が12〜14mあります。
 東西南北の城門楼にはそれぞれ名前があり、写真は、西門の安定門です。西方のシルクロードを望む最大の城門で、ここから多くの人たちが西を目指して出立しました。
 玄奘三蔵法師も、この西の城門を後にしてシルクロード、天竺へと旅立ったのでしょう。

  

【大 雁 塔 (慈 恩 寺)】
 大慈恩寺は、唐の高宗皇帝が母を供養するために旧寺を再建したいわれる仏教寺院。その院内に建つ4角7層、高さ64mの塔が、大雁塔です。玄奘がインドから持ち帰った大量の教典や仏像などの保存のために塔の建造を皇帝に申し入れ、この大雁塔が造られたとのことです。
 創建時はインド様式の5層仏塔だったのが、その後、修復が繰り返し行われ、明代に現在の7層になったとのことです。底辺が正方形をした独特な形は、当時の建築を伝えるものとして、西安のシンボル的存在となっています。
 塔内のらせん階段を最上段(248段)まで登ると、窓から西安市内を一望することができ、素晴らしい景観が望めます。

【秦 俑 博 物 館 (秦始皇帝兵馬俑博物館)】
 兵馬俑は、1974年、井戸を掘っていた農民により偶然発見されました。その発見現場に兵馬俑博物館を建て、本格的な発掘を進めながら公開しています。秦始皇帝陵の東、1.5qのところに位置します。
 館内には、1号坑2号坑3号坑などがあり、7,000もの兵士俑や100あまりの戦車、400あまりの陶馬が発掘されています。中でも、写真の1号坑が一番規模が大きく、等身大かそれよりやや大きい兵士が東を向いて整然と居並ぶ様は正に壮観、そのスケールの大きさと迫力に圧倒されます。
 製作は紀元前220年頃と推定されていますが、現在も発掘が進められており、全容は未だ明らかになっていません。

【華 清 池】
 温泉としての歴史も古く、景観が美しい。唐代中期に玄宗皇帝がここに華清宮を建て、以来、毎年秋から翌年の春までを楊貴妃と過ごしたといいます。元来は、周の時代より歴代皇帝の保養所として使われてきた温泉地でしたが、その二人のロマンスの地として有名になりました。
 敷地内にある御湯遺址博物館では、玄宗皇帝専用浴室の蓮華湯や楊貴妃専用浴室の海棠湯などの遺跡を見ることができます。
 写真は、九龍池ほとりに立つ楊貴妃の彫像です。
 また、1936年、西安事件で蒋介石が捕らえられた場所としても知られています。



シルクロードの交流点 敦 煌

砂州と呼ばれていた敦煌は、その名のとおり、広大な砂漠に囲まれたオアシス都市です。
漢の武帝が紀元前111年に置いた河西四郡の内の一つで、西域の軍事上の要衝
であると同時に、東西貿易の拠点として繁栄しました。

シルクロードの主要なルートは、大きく分けて3つあります。
その一つ、天山山脈の北を通る天山北路は、敦煌からハミ、
トルファン、ウルムチ、カザフスタンを経てローマへ。
その二つ、天山山脈の南を通る天山南路は、トルファンからコルラ、
クチャ、カシュガル、パミール高原を越えてローマへ。
三つは、更に、タクラマカン砂漠の南に西域南路があり、これは、敦煌から楼蘭、
チャルチャン、ホータンを経由してカシュガルに入り、天山南路に合流する。

いずれにしろ、敦煌は東西文化が花開いたシルクロードの交流点でした。その集大成が
中国三大石窟の一つ、砂漠の大画廊、莫高窟といえます。

【莫 高 窟】
 市内の南東約25qに位置し、鳴沙山東端の断崖に造営された、長さ1,600m、高さ50m、上下5層の石窟群。写真は、その全景と九層楼です。
 366年、楽尊という僧によって掘削されたのが始まりといいます。その後、元代に至るまでの約1,000年間にわたって掘り続けられてきましたが、やがて衰退していく。それが再び日の目を見るようになったのは、20世紀の初めのことです。1,900年、第17窟が発見され、中から膨大な数の教典や古文書が姿を現し、世界中の話題を呼びました。
 最盛期には1,000を超えたといわれていますが、現在は、16王朝492の石窟が確認されているとのことです。492の石窟の内、一般公開されているものと特別公開されているものがあります。壁画、彩色塑像、飛天像など、各王朝時代の仏教美術の精粋を見学することができます。正に砂漠の大画廊の名にさわしい、仏教美術の宝庫といえます。
 なお、莫高窟はカメラ、ビデオ等の撮影は禁止。また、窟内は暗く、懐中電灯を照らしながらの見学になります。

  

【第45窟 「菩薩・阿難・天王塑像」】
 特別窟は、別途料金が必要ですが、それだけの価値は十分あります。この第45窟は、その特別窟の一つです。菩薩阿難天王の塑像や壁画など、盛唐時代に掘削されたもので、石窟群の中でも最高水準と称えられています。中央の菩薩塑像は、肉感的な豊かさといい、傾き加減のポーズといい、見るものを魅了して止みません。
 もう一つ、写真はありませんが、第57窟菩薩壁画。菩薩の気品にあふれた微笑みが、何とも優しく美しい、魅惑的な壁画です。こちらは、初唐時代のものとのことです。この二つの石窟は、今ももう一度見学したいという思いに強く駆られます。

【鳴 沙 山】
 東西約40q、南北約20q、一番高い所で250mもある、砂礫が堆積してできた砂山。敦煌の南、約5qに位置しています。風が吹くと、砂礫が音を立てるところから、この名が付いたといいます。
 シルクロードといえば、ラクダに乗った隊商のイメージが浮かびます。ここでは、それに近い風景を体験することができ、ラクダに乗って鳴沙山の麓まで行く観光があります。
 実は、この日はあいにくの砂嵐で、舞う砂礫で辺りはかすむは、吹き付ける砂で顔面は痛く目は開けていられないはで、大変でした。この時期には珍しい砂嵐ということでしたが、そんな中でのラクダ乗りの体験は、一層、タクラマカン砂漠を行く隊商のイメージと重なり、正にシルクロードなりの感慨でした。

【月 牙 泉】
 鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉。東西200m、幅50mあり、深さは平均で5mとのこと。以前は、今の約5倍の大きさだったといいます。
 漢代から遊覧地として知られていたといいますから、2,000年という悠久の時を刻みながら、絶えることなく湧き続けていることになります。何とも神秘な泉です。
 古来、神仙が住む場所として寺院が建てられていたとのことですが、現在、泉のほとりに楼閣が復興されています。
 月牙山砂丘滑りは、厄よけとして知られているそうです。木の階段や駕籠まで用意されていましたが、いずれも有料。しかし、とんだ砂嵐で砂丘登りどころではありませんでした。



シルクロードのオアシス都市 トルファン

トルファンは、天山山脈の雪解け水によって潤っているオアシス都市で、世界でも有数の
低地であるトルファン盆地の中央部に位置しています。ちなみに、トルファンとは、
ウイグル語で「低地」を意味するとのこと。
シルクロード天山南路天山北路を連絡する要衝地点として栄え、現在でも鉄道の
蘭新線と南彊線の分岐点になっており、地理的な重要性は変わっていません。
高温で乾燥しており、観光した日も40℃近くありましたが、最高気温は
48℃を記録したとか。火州とも呼ばれる所以です。

5〜7世紀には、漢民族の移民によって高昌国が建設され、繁栄を
極めました。その後、唐の直接支配の時代を経て、ウイグル族が西ウイグル王国を建国
すると、ベゼクリク千仏洞を代表とする高度な文化が出現し、トルファンの最盛期を迎えました。

【ウルムチからトルファンへ】
 トルファンは、新彊ウイグル自治区の区都であるウルムチから東へ180q、車で約3時間半の旅でした。どこまでも荒野と大草原が延々と続き、その真っ直中を道路と、そして電柱だけが伸びていて、その先はかすんで消えていました。
 時折、風力発電機が並ぶ風景や、高速道路建設の現場を目の当たりにして、中国の現代化の槌音が聞こえてくる思いがしました。
 写真の雲間に見える万年雪の山は、天山山脈の高峰、ボゴダ山(約5,400m)です。遙かに連なる天山山脈は、シルクロードの隊商とともに、この地を舞台に繰り広げられてきた漢民族遊牧民族との興亡の歴史を見つめてきたのでしょう。


【高 昌 故 城】
 トルファン市街地の東約40qのところにある城址遺跡
 498年、漢人麹氏高昌国を建て城を築いて以来、政治、経済、文化の中心として栄えた高昌国の城跡です。外周約4.5q、城壁の高さは約10mもあったとのこと。もともとは、漢代に砦であったところに武帝が郡を置き、その郡が独立したのが始まりだといいます。
 628年頃には、玄奘三蔵がインドに仏典を求める途中、ここで国王麹文泰に最高の待遇で迎えられて2カ月ほど滞在し、1カ月にわたって説法を行ったといわれています。
 その直後、高昌国は唐によって滅ぼされ、栄枯盛衰を物語る城跡だけが残っています。その向こうに、火焔山の連なりが見えます。

【火 焔 山】
   トルファン盆地の中部に横たわる東西100q、南北10q、平均海抜500mの山地で、最も高いところで851mほどあるとのこと。
 この山では、日中、気温が40℃を超えると辺りの地表温度は60℃以上にもなり、赤いひだの入った山肌は、地表から立ち上がる陽炎によって燃えているように見えるところから、この名で呼ばれるようになったといいます。
 『西遊記』に登場する場所としても有名です。燃えさかる火焔山に行く手を阻まれた玄奘一行は、その火を消せる芭蕉扇を手に入れるため、孫悟空がその持ち主の鉄扇公主と戦った場所です。一角に、玄奘一行の彫像が建っています。

【ベ ゼ ク リ ク 千 仏 洞】
 トルファンから北東38q、火焔山山中のムルトゥク河南岸にある、新彊の石窟の一つ。ベゼクリクとは、ウイグル語で「美しく飾られた家」という意味とのこと。
 この石窟寺院は、6世紀の麹氏高昌国期から始まり、元代の14世紀までの約800年の年月を要して造営され、多くの壁画や仏像が掘削されました。最盛期は、西ウイグル帝国トルファンを支配していた9世紀中葉。
 その後、イスラム教徒の侵入によって破壊されたり、外国人探検隊によって海外に持ち出されたりして、現在では、ほんの一部が残っているだけになってしまったとのことです。



  

ご一緒した皆さんと高昌故城、そして、莫高窟にて(無断掲載お許しください)



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